コラム

第3話 旅する「港」の物語

第3話 旅する「港」の物語

港を旅するのではない。港が旅をするというはなし。

第2話で石塚山古墳が海辺に造られたという話を書いたが、それから一世紀余り後、約2.5キロ南に御所山古墳(国指定)が築かれた。

石塚山古墳と同様、海辺に造られた前方後円墳である。石塚山古墳と御所山古墳の違いは石室にある。竪穴式石室の石塚山に対し、御所山は追葬が可能な横穴式石室である。葬送文化の変化が見てとれる。

石室の違いはあるものの、苅田の海岸線に大きな古墳が続けて造られたということは、この地域(行橋・京都地域)に大きな勢力が栄え続けていたことがうかがえる。海辺に造られたということは、ヤマト王権との関係を鑑みても、近くに「港」らしきものがあったと考えるのは自然だが、実際のところは分からない。

この地域で「港」が確認されるのは律令時代である。豊前国の国府(みやこ町国作)が設置され、草野(行橋市)に港が築かれた。当時、港のことを「津」といった。津々浦々の津である。草野津は豊前国府の外港として栄えたが、長峡川から流れ込む土砂が堆積して次第に港湾機能を失っていった。代わりとなる新しい港が必要になり、数キロ北東に新しい津が築かれた。新津(荒津)である。

港は新津から大橋津を経て、今井津へ移っていった。中世の今井津は豊前国有数の港町となり、交易を扱う商業都市として大きく発展していった。

近世になると、港の機能は沓尾湊に移った。江戸時代初頭、豊前国に領地を得た細川忠興が開発した港であり、小倉藩有数の港となった。

一方、港ではなくなった新津の地名は近世になって、手永(てなが)名として歴史に刻まれることになる。手永とは小倉藩が郡と村の間に置いた行政組織であり、苅田地域の大部分の村は新津手永に属した(鋤崎・黒添・法正寺・谷・山口各村は延永手永)。手永には大庄屋がおり、各村の庄屋を監督していた。第2話で登場した銀助も、新津手永南原村の庄屋であった。

近代になると、苅田地域は明治期に製塩業、大正期にセメント産業が栄えた。昭和になって、筑豊炭田の積出港としての苅田港の建設が始まった。港は、石塚山古墳や御所山古墳の地先を埋め立てて造られた。古墳や新津から始まった「海辺」の物語が、再び、苅田に戻って来たのだ。

さらに、海上に北九州空港が建設された。旅をしてきた「港」が三次元の舞台で新たな旅を始めたのである。

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