第2話 ピザとランドマーク
今から約230年前のこと。
寛永8年(1796)、小倉藩領京都郡南原村庄屋の銀助は用水路の蓋石にできる石を探して、その小山に上った。当時の小山が樹々に覆われていたかどうかは定かでないが、そこにたくさんの石が転がっていることを銀助は知っていたようだ。銀助が小山の頂上にあった平石を動かしたところ、深さ3尺(約1m)、長さ3間(約5.4m)の長大な空間が見つかった。壁面は石垣で囲まれていた。底に11面の鏡や銅鏃、太刀などが横たわっていた。
銀助は知る由もなかったであろうが、その小山が石塚山古墳であり、鏡が三角縁神獣鏡であったのだ。その後、鏡は散逸していたが、当時の地元宇原神社の広瀬正美知宮司(かんだ郷土史研究会の初代会長)の奔走により、7面が集められ、破損していた鏡は修復された。神社で保管され、昭和28年(1953)には国の重要文化財に指定された。
それから32年後の昭和60年(1985)、石塚山古墳自体が国史跡に指定された。これを受けて、2年後の昭和62年、古墳後円部の竪穴式石室の調査が行われた。その結果、三角縁神獣鏡の小さな破片が発見された。それはあたかも、食べ残されたピザの一ピースのようだった。
そのピースは、広瀬正美知氏が収集した鏡の一つの欠損部分とピタリと一致したのである。約190年の時空を超えて鏡が合体し、一つになったのである。
さて、銀助は、銅鏡発見の顛末について小倉藩に報告書(『寛政八年小倉領鏡剣掘出候事』)を提出している。それを読むと、この小山の名前が「石塚山」であること、小山が南原村の「浜手」、つまり海辺にあったことがわかる。
昭和62年の石塚山古墳発掘調査を指揮した長嶺正秀氏(当時苅田町職員)はその著書『筑紫政権からヤマト政権』の中で、築造当時、古墳前方部のすぐ前が海岸線であったことを指摘している。
銀助は報告書で、石塚山のある場所の地名が「浮殿」であることを記している。前方部には現在、浮殿神社が建っている。神社を背に海側を眺めてみよう。眼前に広がる住宅街と工場群が想像の海に変わると、古墳時代にタイムスリップすることができる。
想像の海に船が見えたら、その船に乗ってみよう。すると、陸地に石に覆われた巨大な古墳が見える。朝陽が当たると石がキラキラと輝くランドマークだ。






